細川通董と青佐山城の歴史

細川通董と青佐山城の歴史!


  ・築造者は、当時の備中介であった安倍晴明であるとも伝えられているが、伝承の域をを出ない。
  ・天文10年(1541)安芸の国を勢力下としていた大内義隆が、その後備中へ勢力を拡大した時、ここ青佐山
   にも堡塁(水軍砦)を築いたと思われる。
  ・室町時代には、細川氏(野州家)が鴨山城を本拠としてここ浅口一帯を領有していたが、戦国時代を迎える
   と尼子氏、宇喜多氏等の圧力を受けて勢力を失い、分郡のあった伊予国へ退いた経緯がある。
  ・戦国の世に城主を失った浅口一帯の36将は永禄2年(1559)毛利の援助を受け、伊予国 川之江にいた細川
   通董を迎えに行った。
  ・旧領地に戻った通董は当時毛利氏に従う村上氏が支配していたと思われる青佐山の砦(水軍砦)を修築し、旧
   領回復の拠点とした。(この時、戦国の世に独力では川之江の維持は不可能との判断が通董に働いた可能性も
   ある ...)
  ・通董は細川家旧家臣(赤澤、大内、安部、秋田、河田、藤沢、今城、大島ら)に迎られると、山麗(現・二階集落)
   に屋形を設け、周り(現・松尾、大空、鏡集落)に家臣を配置した。
  ・その後通董は勢力拡大を図り、永禄9年(1566)には浅口市六条院竜王山に城を創築し、7年間在城した青佐
   山から移った。そして天正3年(1575)には、かって細川家の本城であった鴨山城を奪回し、浅口一帯の領
   地を取り戻した。
  ・天正15年(1587)通董は秀吉の薩摩攻めに毛利の武将として参戦し、その帰路赤間関の船中で死没。
  ・残った通董の子孫は関ケ原の戦い後、毛利氏の移封に際しこの地(浅口)から長門の国へ去った。
  ・江戸時代に入り、この地(浅口一帯)は池田藩の領有となり、多くの例にもれず青佐山城は廃城となった。


・築造者は、当時の備中介であった安倍晴
明であるとも伝えられているが、伝承の域
をを出ない。
・天文10年(1541)安芸の国を勢力下と
していた大内義隆が、その後備中へ勢力を
拡大した時、ここ青佐山にも堡塁(水軍砦)を築いたと思われる。
・室町時代には、細川氏(野州家)が鴨山
城を本拠としてここ浅口一帯を領有してい
たが、戦国時代を迎える と尼子氏、宇喜多
氏等の圧力を受けて勢力を失い分郡のあっ
た伊予国へ退いた経緯がある。
・戦国の世に城主を失った浅口一帯の36将
は永禄2年(1559)毛利の援助を受け、伊
予国 川之江にいた細川通董を迎えに行った
・旧領地に戻った通董は当時毛利氏に従う
村上氏が支配していたと思われる青佐山の
砦(水軍砦)を修築し、旧領回復の拠点と
した。(この時、戦国の世に独力では川之江
の維持は不可能との判断が通董に働いた可
能性もある ...)
・通董は細川家旧家臣(赤澤、大内、安部、秋
田、河田、藤沢、今城、大島ら)に迎られると
山麗(現・二階集落)に屋形を 設け周りに
(現・松尾、大空、鏡集落)家臣を配置した。
・その後通董は勢力拡大を図り、永禄9年
(1566)には浅口市六条院竜王山に城を
創築し7年間在城した青佐 山から移った。
そして天正3年(1575)には、かって細川
家の本城であった鴨山城を奪回し、浅口一帯
の領地を取り戻した。
・天正15年(1587)通董は秀吉の薩摩攻
めに毛利の武将として参戦し、その帰路赤間
関の船中で死没。
・残った通董の子孫は関ケ原の戦い後、毛利
氏の移封に際しこの地(浅口)から長門の
国へ去った。
・江戸時代に入り、この地(浅口一帯)は
池田藩の領有となり、多くの例にもれず青
佐山城は廃城となった。