誇り高き集団/備中杜氏

<起源は元禄時代!>
・現在の笠岡市の南部、旧浅口郡大島村正頭・寄島あたりが発祥の地であると考えられる。
・大島村(正頭)は天恵に乏しく田畑は少なく元禄年間頃(1688~1709)には人戸わず
 か数十戸であったという。
・村人は農業の傍ら副業として、漁業に従事していたが漁獲量も少なく、冬季は閑散期と
 なり生活に支障をきたす者も少なくなかった。

<酒造りとの出会い!>
・時は元禄の頃、当地の青年 浅野弥治兵衛(通称忠吉)は今の兵庫・大阪に通う運搬船に
 雇われていた。
・ある時、嵐に遭遇したが兵庫の灘地方に漂着し奇跡的に助かった。海上での生活に危険
 を察した忠吉は船の生活を捨て、この地の酒造所に雇われることとなった。
・そこで、臼踏み(今の精米工)をしているうちに、その人柄が認められ”蔵男”に昇進し
 ここで丹波流の酒造方法を習得した。
・その後杜氏として認められた忠吉は広島県忠海(現在の東広島市安芸津町..広島杜氏
 発祥の地)の酒造所を皮切りに、各地に出向き習得した酒造技術を伝授した。

 ” 途中大島村へも帰り、地元で弟子(藤十)達を育成した ... ”

誇り高き集団/備中杜氏

<起源は元禄時代!>
・現在の笠岡市の南部、旧浅口郡大島村正頭・寄島あたりが発祥の地である。
・大島村(正頭)は天恵に乏しく田畑は少なく元禄年間頃には人戸わずか数十戸であったという。閑散期となる冬季には生活に支障をきたす者も少なくなかった。

<酒造りとの出会い!>
・時は元禄の頃、運搬船に雇われていた浅野弥治兵衛(忠吉)がある時、灘地方の沖合いで嵐に遭遇..奇跡的に助かりこの地の酒造所に雇われることとなった。
・その人柄が認められ”蔵男”に昇進し、ここで丹波流の酒造方法を習得した。
・その後杜氏として認められた忠吉は広島杜氏発祥の地の酒造所を皮切りに、各地に出向き習得した酒造技術を伝授した。

”途中大島村へも帰り、地元で弟子(藤十郎)達を育成した ..”

動画紹介