正頭漁港/波止場の歴史

正頭漁港の沿革が記されている記念碑!
正頭漁港の沿革が記されている記念碑!

由緒・余聞

<正頭漁港・沿革>
・正頭漁港(波止場)の起源は、天明年間(1780年代)と言われている。当時の波止場の規模など記録になく定かで
 ないが、金毘羅宮を基点に沖合へ11間の波堤があったと思われる。
時は過ぎ、明治17年8月25日、明治年間で最大級と称されるほどの大型台風に見舞われ、高潮と波浪で11間の破堤
 の一部が崩れ、海中に沈んだ。当時の記録には「海嘯ニヨリ波止場ガ決壊、海中ニ没シタ」と記されている。崩れた
 個所は直ぐ復旧したとも記録に残っている。
・そして大正元年に当時の漁協組合長の黒住菊三郎氏が自ら漁港築造計画を立案し、まず防波堤の増築(20間余延長)
 から着手した。
時は昭和に入り、6年~13年の間に沖一文字堤39間と東側(小烏)組石積突堤32間を完成させ、ようやく漁港の形態
 が整ってきた矢先、菊三郎氏は志半ばで死去 ...。
・その後、二代目漁協組合長 今井彦太氏が先代の志を継ぎ、組合員の総意でもある「港築造計画」を大島村の村営事業
 として再着手した。組合員の悲願だった「東堤防の75m増築」「一文字の封鎖」「荷揚階段・船揚場」などの築造が
 叶った。
・総工費1,285万円を投じ、菊三郎氏の理想とする港が、前後40年間にして昭和27年5月にようやく完成したと、記念
 碑にも記されている。
そして、当時の村長、助役、村議会の面々そして漁協組合員の努力・熱意が、今日の漁港形成の礎となっている。

由緒・余聞

<正頭漁港・沿革>
・正頭漁港(波止場)の起源は、天明年間(1780年代)と言われている。当時の波止場の規模など記録になく定かでないが、金毘羅宮を基点に沖合へ11間の波堤があったと思われる。
・時は過ぎ、明治17年8月25日、明治年間で最大級と称されるほどの大型台風に見舞われ、高潮と波浪で11間の破堤の一部が崩れ、海中に沈んだ。
・そして大正元年に当時の漁協組合長の黒住菊三郎氏が自ら漁港築造計画を立案し、まず防波堤の増築(20間余延長)から着手した。
・時は昭和に入り、6年~13年の間に沖一文字堤39間と東側(小烏)組石積突堤32間を完成させ、ようやく漁港の形態が整ってきた矢先、菊三郎氏は志半ばで死去。
・その後、二代目漁協組合長 今井彦太氏が先代の志を継ぎ、組合員の総意でもある「港築造計画」を大島村の村営事業として再着手した。組合員の悲願だった「東堤防の75m増築」「一文字の封鎖」「荷揚階段 船揚場」などの築造が叶った。
・総工費1,285万円を投じ、菊三郎氏の理想とする港が、前後40年間にして昭和27年5月にようやく完成したと、記念碑にも記されている。
 

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