原田和泉守/屋敷跡・墓石

左奥に青佐山が! 十地集落より遠望!
ここら辺りに和泉守の構屋敷があった!
和泉守は同家墓地の奥に建立されている!

由緒・余聞

< 和泉守と細川通董 >
・現在の大島中5309番地、この地に原田家(旧大庄屋)の構屋敷跡が残っている。
ここは、戦国時代に浅口一帯を領有する36人の武将の一人である原田和泉守が構屋敷を築いていた。
そして永禄二年(1559)この地の守護大名として伊予国(川之江)に退いていた細川通董を青佐山城主に迎え、和泉守
 他36人の武将たちは通董の家臣団として仕えることとなった。
この時、和泉守は石高30石を与えられ、5人の家来を従えていたようだ。
和泉守に関する基資料(生誕年etc)は少なく、天正五年(1577)の歿年から逆算し享禄元年(1528)生まれとすると
 通董を川之江から迎えた永禄二年は32歳、天文生まれの通董は25歳と、まさに男盛りだったといえる
・そして、通董が細川の本城 鴨山城へ入城した二年後の天正五年(1577)に和泉守は逝去している。
 この間(永禄二年~)和泉守は ” 細川三十六将 ”の一人として通董に仕えてきた。

<余 聞>
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由緒・余聞

<和泉守と細川通董>
・現在の大島中5309番地、この地に原田家(旧大庄屋)の構屋敷跡が残っている。
・ここは、戦国時代に浅口一帯を領有する36人の武将の一人である原田和泉守が構屋敷を築いていた。
・そして永禄二年(1559)この地の守護大名として伊予国(川之江)に退いていた細川通董を青佐山城主に迎え、和泉守他36人の武将たちは通董の家臣団として仕えることとなった。
・この時、和泉守は石高30石を与えられ、5人の家来を従えていたようだ。
・和泉守に関する基資料(生誕年etc)は少なく、天正五年(1577)の歿年から逆算し享禄元年(1528)生まれとすると、通董を川之江から迎えた永禄二年は32歳、天文生まれの通董は25歳と、まさに男盛りだったといえる 。
・そして、通董が細川の本城 鴨山城へ入城した二年後の天正五年(1577)に和泉守は逝去している。この間(永禄二 年~)和泉守は ” 細川三十六将 ”の一人として通董に仕えてきた。

<余聞>
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