余聞/その後の増五郎!
・その後、時は過ぎ上覧相撲が行われ、将軍徳川家斉をはじめとする各諸侯の居並ぶ前で鬼怒川は相撲を取ることとな った。 ・呼び出しが「鬼怒川の生国は備中」と告げた ...この時、将軍家斉は鴨方藩主池田公と福山藩阿部公に「あれが め組の大立ち回りの鬼怒川だ」と教えたところ、あわてた藩主池田信濃守は ”夏目の後山”を 藩主阿部公は ”仙酔島” を与えようと鬼怒川に申し出た。ところが鬼怒川は「山をおうては歩けませぬ」と、どちらも辞退し代りに「鶴の羽 交織の羽織」と「大小刀」を賜ったと伝えられている。 ・鬼怒川(増五郎)は文政3年(1820)50歳で引退、帰郷して弘化3年(1846)77歳で亡くなり、海が見下ろせるふ る里(正頭)の殿山墓地に埋葬されている。そして黒住清氏の撰文が彫られた今の碑は、平成26年に建立された。 ・増五郎は、郷里に帰ってから素盞嗚神社の拝殿再建や本殿の屋根ふき替えなどふる里に貢献した。 参考文献:ふるさと大島の伝説 |
・その後、時は過ぎ上覧相撲が行われ、将軍徳川家斉をはじめとする各諸侯の居並ぶ前で鬼怒川は相撲を取ることとなった。 ・ 呼び出しが「鬼怒川の生国は備中」と告げた ...この時、将軍家斉は鴨方藩主池田公と福山藩阿部公に「あれがめ組の大立ち回りの鬼怒川だ」と教えたところ、あわてた藩主池田信濃守は ”夏目の後山”を 藩主阿部公は ”仙酔島”を与えようと鬼怒川に申し出た。ところが鬼怒川は「山をおうては歩けませぬ」と、どちらも辞退し代りに「鶴の羽交織の羽織」と「大小刀」を賜ったと伝えられている。 ・鬼怒川(増五郎)は文政3年(1820)50歳で引退、帰郷して弘化3年(1846)77歳で亡くなり、海が見下ろせるふる里(正頭)の殿山墓地に埋葬されている。そして黒住清氏の撰文が彫られた今の碑は、平成26年に建立された。 ・ 増五郎は、郷里に帰ってから素盞嗚神社の拝殿再建や本殿の屋根ふき替えなどふる里に貢献した。 参考文献:ふるさと大島の伝説 |