素盞嗚神社の夏祭り
神儀の起源と変遷
・天保6年(1835)頃まではこれと言った神儀はなく、境内に幟を建て社殿にお飾り幕を張り提灯を灯す程度の神儀が 行われていたようだが、1840~1860年代(弘化~慶応)に入り他所の神儀見習うなど徐々に神儀熱が起り、鬼や奴 獅子など出るようになったと神社の祭典記録に残っている。そして明治30年(1897)社殿完成を祝い、上棟式と祭典 で三日間大いに賑わったとも記されている。また明治に入ってからは「塗り神輿」や「小型千歳楽」を新調、これに 「千歳楽の歌と囃子」「太鼓」が加わるなど、今の神儀(祭り)の原形が出来て行った。 ・大正12年(1932)には境内に40個の電球で県下初となる電灯富士山を作り宵祭りを盛り上げたと記されている。 (この電灯富士山は昭和に入り各集落に広まった!) ・昭和に入り、戦争で灯火管制など制約を受ける時期が続いたが、昭和22、23年の祭りは正頭の人口が一番多い時期 (322戸)に戦争の解放感もあって祭典は大変賑わったと記録に残っている。その後 昭和30年代に入り神輿を3台 新調したものの、昭和36年には弘化時代から継承してきた奴の後継者がいなくなったり、また昭和40年代に入って は当地を離れる若者が増え、千歳楽が担げない(台車で動かす)など徐々に祭りの様相が変っていった。 ・昭和54年以降は人手不足もあり、これまで旧暦で執り行われていた祭典日を新暦の7月第四、土・日曜日に変更し今 日に至っている。こうしたなか戦後の最繁期には(赤鬼・青鬼、奴6、神輿3、御船1、千歳楽2)であった行事の形も 簡素化、縮小(神輿1、御船1、千歳楽1)しながら、先代達から引き継いできたこの神儀(祭り)を氏子衆総力でこ れからも継承していくことでしょう ...! |
神儀の起源と変遷
・天保6年(1835)頃まではこれと言った神儀はなく、境内に幟を建て社殿にお飾り幕を張り提灯を灯す程度の神儀が行われていたようだが、1840~1860年代(弘化~慶応)に入り他所の神儀見習うなど徐々に神儀熱が起り、鬼や奴、獅子など出るようになったと神社の祭典記録に残っている。そして明治30年(1897)社殿完成を祝い、上棟式と祭典で三日間大いに賑わったとも記されている。また明治に入ってからは「塗り神輿」や「小型千歳楽」を新調、これに「千歳楽の歌と囃子」「太鼓」が加わるなど、今の神儀(祭り)の原形が出来て行った。 ・大正12年(1932)には境内に40個の電球で県下初となる電灯富士山を作り宵祭りを盛り上げたと記されている。(この電灯富士山は昭和に入り各集落に広まった) ・昭和に入り、戦争で灯火管制など制約を受ける時期が続いたが、昭和22、23年の祭りは正頭の人口が一番多い時期(322戸)に戦争の解放感もあって祭典は大変賑わったと記録に残っている。その後昭和30年代に入り神輿を3台新調したものの、昭和36年には弘化時代から継承してきた奴の後継者が いなくなったり、また昭和40年代に入っては当地を離れる若者が増え、千歳楽が担げない(台車で動かす)など徐々に祭りの様相が変っていった。 ・昭和54年以降は人手不足もあり、これまで旧暦で執り行われていた祭典日を新暦の7月第四、土・日曜日に変更し今日に至っている。こうしたなか、戦後の最繁期には(赤鬼・青鬼、奴6、神輿3、御船1、千歳楽2)であった行事の形も簡素化、縮小(神輿1、御船1、千歳楽1)しながら、先代達から引き継いできたこの神儀(祭り)を氏子衆総力でこれからも継承していくことでしょう ..! |