鳥越新兵衛の功績
由緒・余聞
<鳥越新兵衛の墓> ・市指定史跡(指定年月:昭和33年4月25日) ・所在地:笠岡市入江(入江新田跡の小山にある共同墓地) <鳥越新兵衛と干拓の歴史> ・新兵衛氏は小田郡本堀村(現矢掛町)で庄屋の子として生まれた。長じて大阪に出て「尼崎屋新兵衛」と名乗り土木 請負業を営んでいた。 ・新兵衛氏が同志の西川屋源右衛門と共に、小田郡横島村と浅口郡西大島村との間の広大な入江の、干拓許可を出願し たのは1713年のこと、ところがここは異なる藩の領海面で支配関係が入り組むなど、開発が許可されたのは出願か ら12年後の1725年のこと ...。 ・そして新兵衛氏達は工事に着工してから、わずか7ヶ月で潮止めに成功 ...。 ・それから5年後の1730年に、今立川を挟み西側、幕府領の入江新田16町歩弱が完成。つづいて翌1731年には東側、 鴨方藩領の西大島新田36町歩弱が完成した。 ・またこの時、浜中沖新田との境界付近の土地1町9反弱を浜中村へ渡したと記録に残っている。 ・このように新田が拓かれ田畑が増え、西大島周辺の地形も大きく変ってきた。 ・その後、新兵衛氏は竹ヶ端の海岸に屋敷をかまえ、宝暦11年(1761)9月、91歳の天寿を全うした。(墓は彼が拓 いた新田が見渡せる小高い丘に建てられている) |
由緒・余聞
<鳥越新兵衛の墓> ・市指定史跡(指定年月:昭和33年4月) ・所在地:笠岡市入江の共同墓地 <鳥越新兵衛と干拓の歴史> ・新兵衛氏は小田郡本堀村(現矢掛町)で庄屋の子として生まれた。長じて大阪に出て「尼崎屋新兵衛」と名乗り土木請負業を営んでいた。 ・ 新兵衛氏が同志の西川屋源右衛門と共に小田郡横島村と浅口郡西大島村との間の広大な入江の、干拓許可を出願したの1713年のこと、ところがここは異なる藩の領海面で支配関係が入り組むなど、開発が許可されたのは出願から12年後の1725年のこ と。 ・そして新兵衛氏達は工事に着工してから、わずか7ヶ月で潮止めに成功 。 ・それから5年後の1730年に、今立川を挟み西側幕府領の入江新田16町歩弱が完成、つづいて翌1731年には東側鴨方藩領の西大島新田36町歩弱が完成した。 ・またこの時、浜中沖新田との境界付近の土地1町9反弱を浜中村へ渡したと記録に残っている。 ・このように新田が拓かれ田畑が増え、西大島周辺の地形も大きく変ってきた。 ・その後、新兵衛氏は竹ヶ端の海岸に屋敷をかまえ、宝暦11年(1761)9月、91歳の天寿を全うした。(墓は彼が拓いた新田が見渡せる小高い丘に建てられている) |